現・法政大学)、明治法律学校(一八八一年、現・明治大学)、東京専門学校(一八八二年、現・早稲田大学)、英吉利法律学校(一八八五年、現・中央大学)、および立教学校(一八七四年、現・立教大学)、同政教社志社英学校(一八七五年、現・同志社大学)、成医会講習所(一八八一年、現・東京慈恵会医科大学)、皇典講究所(一八八二年、現・国学院大学)、関西法律学校(一八八六年、現・関西大学)などが設立されていた。哲学館の創立には、このような私学誕生の流れが関係していたが、国立も含めたこれらの機関が担っていた領域は、医学・法学・経済学・工学・農学・自然科学・語学などの、どちらかといえば実学の分野が主流であり、当時の高等教育の世界では、円了のように、哲学(思想)を重視することは少数派であった。哲学館の創立前後は、高等教育の分野で変化があったように、日本の国家や社会のあり方に転換が求められた時期でもあった。一八八〇年代の日本は、維新期の西洋からの機械・制度・知識などの直輸入を経て、それを基礎にした日本人による新たな文明・文化の第二章 「日本主義の大学」31
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