ショートヒストリー東洋大学
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私学の誕生なえ、政府の手厚い保護のもとで、日本の高等教育機関の頂点に押し上げられた。これ以後、官学優位の「官高私低」の学校序列が形成されるが、哲学館はこのように私学が冷遇されるようになった直後に誕生した。東京大学が帝国大学となった前後は、一方で新しい私学が誕生した時期でもあった。一八八八(明治二一)年の統計によれば、帝国大学の学生数は七三八名、その他の国立・公立の専門学校生数は一五四六名、これを合わせた官学の学生数は二二八四名であった。これに対して、その三倍以上の七七三六名の学生を教育していたのは私学であった。当時の私学は、正規の中学校でもなく大学でもなく、「諸学校通則」という別の勅令のもとにおかれていたが、私学の源流ともいうべき塾の伝統は生き続け、すでにあった慶応義塾に続いて、一八八七(明治二〇)年頃に、新しい私立学校が誕生した。たとえば現在まで存続している学校を挙げると、つぎのようになる。五大法律学校といわれた専修学校(一八八〇年設立、現・専修大学)、東京法学校(一八八一年、30    

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