この二つに対して、第三の源流となったのが民間の私塾であった。塾は近世の初頭から漢学塾としてすでに栄えていて、幕末期になると国学塾、医学塾、洋学塾が誕生し、さらに維新以後も、これらに英語塾や数学塾が加わるようになっていた。この流れが私学の系譜となった。こうした三つの源流をもつ近代高等教育は、一八七〇年代の時期まで、私学のイニシャティブがきわめて強く、それまでの私塾の伝統は語学教育・専門教育の両面で生き続け、次第に官立(国立のこと)の教育機関が整備されたが、官学・私学ともに、学校間に格差がほとんどない状況であったと言われている。しかし、哲学館ができる直前から、このような状況は一変した。伊藤博文らによって、東京大学が帝国大学に改変されたからである。それは一八八六(明治一九)年の「帝国大学令」という勅令をもってつくられ、その第一条には「国家の須し要よに応ずる学芸技芸を教授しおよびその蘊う奥の(極意)を攻究する」とその目的が明記され、国家の制度を維持・発展させるための官僚・技術者・研究者などを養成する大学として位置づけられた。この帝国大学は、法・医・工・文・理、のちに農を加えた六つの分科大学と大学院をそ第二章 「日本主義の大学」29 んうゅう
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