ショートヒストリー東洋大学
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当時、講義録による教育はまだ法律系の二校が取り組んだばかりで、文科系の講義録は哲学館がはじめてであった。そのため、北は北海道から南は朝鮮まで全国各地からの応募があった。このような館外員は、一八八八(明治二一)年には一八三一名に達した。チベット探検家として知られる河口慧え海かなどは、はじめはこの講義録によって館外員として学び、その後に上京して館内員として学び続けた。こうして、哲学館は当時の主流であった実学系ではなかったにもかかわらず、創立者の知名度の高さと、この講義録によって、創立直後から全国的な基盤をもつ私立学校としてスタートした。26  い

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