ショートヒストリー東洋大学
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大学改革への道のうち七二%を収容するようになっていた。大学(短期大学、高等専門学校を含む)への進学率は、東洋大学が総合大学化をめざした一九六〇(昭和三五)年には一〇%であったのが、一九八七(昭和六二)年には三分の一を上回る三六%にまで上昇していた。いわゆるバブル経済がはじまったころから、社会は「多様化」を求め、そのさきに必然的に「個性化」を求めた。すでに多数の大学がひしめき合うこの状況のなかで、新たな大学への再生を果たすには、自ら未来への道を決定しなければならなかった。このとき、東洋大学は巨大化していた。学生数は二万二〇〇〇名を超え、附属高校を含めた教職員数は八四八名に達していた。大学の再生を果たす以外に、第二世紀の出発はなかった。だが、大学側の動きは鈍かった。「井上円了の教育理念」を提起した哲学者の飯島宗享は、一〇〇周年の五月に亡くなっていた。飯島とともに井上円了研究を主導した宗教社会学者の高木宏夫は、飯島の遺志を実現するためにうごいたが、なかなかきっかけがつかめ272   

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