ショートヒストリー東洋大学
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コンペに参加した設計者はいずれも日本を代表する建築家・設計会社で、また提案された開発手法を審査する審査委員も、日本の建築界の代表者たちであった。狭い校地にある既存の校舎を撤去して、新校舎へと住み替えていく手法で進められる東洋大学の白山再開発は、このようしてまず設計者の選定を終え、第一歩を踏み出した。だが、白山再開発によって伝統あるキャンパスは再生されても、それが新たな東洋大学の再生を十分に意味するとは考えられなかった。「象牙の塔」としての大学は社会の批判にさらされ、実社会に合った大学が求められる時代へと到達していた。そのため、東洋大学の理念と世界や社会の現実を結びつけ、時代・社会とかけ離れた溝を越えるものが必要であった。それがなければ、白山再開発とは単なる校舎などの新築の意味しか持ち得なかったのである。激しい社会の変化のなかで、どのような大学が求められているのか、それを探し、つくり出さなければならなかった。一九八七(昭和六二)年の日本の大学数は四二七校であり、国立が九五校、公立が三七校、私立が三四二校に達していた。いわゆる大学の大衆化を支えたのはこのうちの私立大学であり、総学生数約一九〇万名第八章 大学改革への出発271      

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