ショートヒストリー東洋大学
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早稲田大学)が二一円と高額であったのに対して、哲学館は明治法律学校(現・明治大学)など教室で教師が原書を訳しながら授業をした。まだしきりに外国語の訳語をつくり出していた時代だったので、翻訳本は読みにくく、かえってむずかしいこともあったと語られている。当時の哲学館の授業料は毎月一円であった。一八九二(明治二五)年の年間授業料が、慶応義塾で三〇円、帝国大学、東京高商(現・一橋大学)がともに二五円、東京専門学校(現・と同じく一二円と、学びやすい条件の学校であった。創立当初は入学試験はなく、一六歳以上の男子が対象というだけで、特別な制限はなかった。そのため、学生は一七、八歳の青年から四、五〇歳の中年までと幅が広かった。はじめは館内員つまり通学生だけであったが、一〇月には館外員制度を設けて、今日でいう通信教育に着手し、翌年一月八日から『哲学館講義録』を発行した。館外員になるには、資格は必要なかった。これは地方で学ぶ人々に便宜をはかるために、教室での講義をそのまま筆記印刷して講義録にまとめて発行したもので、哲学を普及するという目的に合致した。講義録の発行は毎月三回で、多くの人々によって学ばれた。第一章 哲学館の創立25   

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