学」記念演奏会がサントリーホールで開催されるまで続けられた。およそ半年間に、式典などの行事、記念講演会、創作・展示、学生関係行事、校友会主催行事、合わせて四二件が開催された。この他の記念出版物も一〇冊を数え、一〇〇周年という歴史のターニング・ポイントにふさわしいものが展開されたが、その後の未来を示唆するようなものは少なかった。なぜかと言えば、これらの行事はみな学内を主体としたものであったからである。当時、日本の国際化は進み、国内的な問題を抱えながらも、激動する世界との関係をどのように位置づけ、世界のリーダーとしての役割をどのように果たすかという課題があった。そのため、とくに高等教育をになう大学への期待は高かった。だが、大学は社会の要請に対応できずにいるというのが、日本の多くの大学の現実であった。東洋大学もその例外ではなかった。創立一〇〇周年の記念事業が進めば進むほど、進展する社会との距離を実感せざるをえなかった。大学はどこへ行くのか、そうした自責の念を深く知らしめたのが一〇〇周年であったが、具体的なターニング・ポイントをつくり出すことはできなかった。そのことが第八章 大学改革への出発267
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