ショートヒストリー東洋大学
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国際化・情報化社会への対応かるという新方針を提案して、これが決定された。西忠雄新学長はこの方針を受けて、三校地の有効利用にあたって、「白山五学部の一・二年次生を朝霞で教育するにあたっては、たんに白山校地の過密を解消するとか、文部省との確約を履行するといった消極的な動機だけでは不十分」で、「この移行は教育の質的向上をはかり、そしてそれが本学の発展に積極的に資するものでなければならない」とした。このようなキャンパスと教育の問題は、緊急の課題として深められていった。それは、一九八七(昭和六二)年の創立一〇〇周年を単なる通過点とせず、東洋大学の新たな出発点としようとしたからである。一方、東洋大学の改革はいくつかの分野で進められていた。一九七八(昭和五三)年から大学院、研究所などが増設された。大学院では経済学研究科経済学専攻と社会学研究科社会福祉専攻に博士課程(後期)が一九七八年に設置され、短期大学には観光産業研究所が付置研究所として一九八二年に設262   

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