大学紛争の残したもの朝霞移転問題に関する大学側と学生側との大衆団交は、夏期休暇前の六月三〇日と七月三日の二回にわたっておこなわれた。とくに七月三日の団交は一五時間にもおよんだが、朝霞移転工事の即時中止を求める学生側との意見に一致点は見出せなかった。交渉が決裂し、学費値上げと朝霞校地買収にかかわる使途不明金などの問題をめぐって、学生運動は激しくなった。このような大きな混乱を経ながら、一九七七(昭和五二)年三月二五日、朝霞校舎第一号館が完成した。そして、四月の新学年から、文学部を除く経済・経営・法・社会の各学部の一年生の授業が開催された。一九七八年には約二万三〇〇〇坪の校地にも新校舎が建設され、一九七九年四月から経済・経営・法の三学部の二年次までの教養課程の授業が実施された(残された文学部と社会学部の一・二年生の教養課程の朝霞移行は一九八六年に実現した)。東洋大学の大学紛争は、一九六七(昭和四二)年の教養課程の川越移行問題にはじまり、一九七八(昭和五三)年の朝霞校地への移転でようやく収束した。この一〇年の間に、紛争第七章 大学の「大衆化」255
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