「大学立法」反対た学生たちによって、夜までにバリケードは撤去された。このように紛争は、多数の外部者の介入と激しい暴力行為があって深刻な事態に陥り、学生側は一般学生と新左翼系学生に分かれ、対立・不信感がより深まっていった。理事長代行はふたたび学園正常化の声明を出して、一一月からの授業を再開したが、その後も器物の破壊や私的制裁を加える暴力事件が相次いで起こり、問題解決の見通しは立たなかった。各学部の教授会は、それぞれ声明文を出して、今後の事態収拾に努めることを明らかにした。やがて、全学共闘会議派は反対学生による妨害のため、集会やデモができなくなり、方針の相違などによって、次第にその組織・活動は形骸化していった。だが、すでに述べた政府・文部省による「大学立法」の強行採決への反対運動が、紛争をふたたび全国的に激化させた。東洋大学でも、一九六九(昭和四四)年五月から六月にかけて、学長をはじめ法学・経営・第七章 大学の「大衆化」249
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