ショートヒストリー東洋大学
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全国の大学紛争すでに述べたように、一九六五(昭和四〇)年の慶応義塾大学からはじまった大学紛争は、私立大学では、さまざまな問題のなかで、学費値上げが紛争の直接のきっかけとなった。東洋大学の場合、学費問題も含まれていたが、直接には教養課程の川越移行が問題となった。もう一方の国立・公立では、学生寮・学生会館等の管理をめぐって大小の紛争が頻発した。一九六八(昭和四三)年は、大学紛争がより激化した時期で、脱税問題を契機とした日本大学、医学部の学生処分を問題にした東京大学、この二つが大学紛争を象徴した。紛争は、全学を巻き込み収拾の見通しが立たない状況で、長期化するまでに変貌した。東京大学では、全共闘・新左翼系学生と民青(日本民主青年同盟)系の学生間の対立が激しくなり、これに学外者も加わって暴力的傾向がさらに強まった。そして、一九六九年一月に、東京大学の象徴である安田講堂を占拠した新左翼系学生に対し、大学側は機動隊を導入してその封鎖を解除するまでになった。240   

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