ショートヒストリー東洋大学
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会は翌二七日に「官憲導入抗議集会」を開催し、二八日には全学闘争委員会総決起大会を開き、全学ストライキの準備を進めるなど、この日を境に、運動はさらに激化した。大学側は一二月九日、学長・理事長の連名で「告示」を出し、川越移行の実施を再表明したが、これに対抗して、一九日から文学部がストライキに突入するなど、事態はますます混迷を深め、大学の生命である教育・研究を続行することが困難となった。一二月に、残任期間が満了して新理事長が選任された。病気で辞任して交代した新学長とによってつくられた新体制は、一九六八(昭和四三)年一月二三日、理事長就任の挨拶のなかで、一九六八年度の教養課程の川越移行の延期を表明した。このように、東洋大学の大学紛争は、川越移行問題から発生し、一九六七年九月から一二月までというわずか四か月間で、学内体制は一挙に混乱した。大学紛争には「混乱、暴力、騒擾、模索、連帯、裏切り、絶望、希望、といったどろどろの人間模様が、学生の側にも大学の側にもあった」と言われるが、東洋大学もその例外ではなかった。第七章 大学の「大衆化」239    

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