事業の一つである記念館の建設は、一九六五(昭和四〇)年二月に着工し、翌年三月に竣工した。ここを会場として、記念式典が計画されていた。しかし、移行問題をめぐる学生の反対運動が激化し、一部の学生による「式典粉砕」の動きもあって式典の延期も検討されたが、結局、例年どおりの創立記念日に開催された。一九六七(昭和四二)年一一月二三日の式典当日、早朝から全学闘争委員会などの学生たちは、校舎の入り口に椅子や机でバリケードを築いた。そのため、一部の校友や来賓などが校舎への入場を阻止され、式典会場の六階の教室でも、座り込んだ学生たちによって入り口が固められ、式典は一時間遅れて午前一一時三〇分から開会された。強行された式典も、来賓の祝辞に移ったとき、数十名の学生が乱入してスクラムを組んで「インターナショナル」を絶叫し、式典そのものも、その後の祝宴も中止に終わった。一一月二五日、全学闘争委員会は常務理事に対し、工事契約調印阻止、理事長の大衆会見を要求した。理事者側との対峙は翌二六日までおよんだ。大学側は事態の収拾のために、未明に機動隊の派遣を要請した。こうして、機動隊が学内にはじめて入った。この機動隊の導入は、学生と教職員に大きな衝撃を与えるものであった。全学闘争委員238
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