育」が問題となっていた。このときの白山校地の学生数は、文学部二〇三四名、経済学部五一九〇名、法学部二一三一名、社会学部一四八八名、短期大学部一〇七七名と、合わせて一万一九二〇名に達して、とくに多かったのは経済学部で、定員を極端に上回る「水増し入学」状態にあった。経済学部には経済学科、経営学科、商学科の三学科があったので、これを分離して経営学部の新設が計画された。それには、経営学の急速な進展と、経済学部の学生数超過の解決という二つの理由があった。経営学部の新設にあたり、白山校地の隣接地の取得に取り組み、また経営学部がおもに使用する地上九階地下二階、総面積二八四五坪の八〇周年記念館の建設を進めたが、文部省が定めた大学の設置基準(一九五六年)に合致しない点があった。設置基準には、「校地は教育にふさわしい環境をもち、校舎の敷地には学生が休息その他に利用するのに適当な空地を有する」こと、「大学はその組織および規模に応じた校舎施設を有する」こととあって、その校地と校舎面積の最低基準が示されていた。大学ではこのような校地不足の問題があったので、設置申請書に八〇周年記念館の新校舎建設、川第七章 大学の「大衆化」229
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