ショートヒストリー東洋大学
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学部新設と狭隘な校地していったが、学生による運動は日本だけではなく、世界的な規模で展開されたもので、高度経済成長下の日本と世界の、大学・学問・人間のあり方のすべてを問う運動となった。アメリカの学生たちは、ベトナム戦争と大学とのかかわりを批判し、バリケードによるストライキが各地で起きた。ヨーロッパでは大学内における学生の位置づけや、大学による「知の独占」を批判して、学生たちは異議を唱えた。有名なフランスの「五月革命」はその象徴となった。すでに述べたように、日本の国公立や私立を問わず、多くの大学でも紛争が起き、教員も教授会も大きく揺れた。紛争の原因はさまざまであった。東洋大学の場合は、白山校地の狭隘問題が引き金になって、教養課程の川越校地への移行問題をめぐって、大学が紛争の場になった。すでに一九六五(昭和四〇)年までに、白山校地では「すし詰め教室」と「マスプロ教228   

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