大学紛争学長・常務理事などが出席した学生側との公開理事者会見は二時間にわたり、大学側は試験準備の不備に関する謝罪を表明したが、「マスプロ教育」については早急に改善できないという回答にとどまった。このようにしてはじまった、学生による教育の内容と施設に関する改善要求はその後も継続され、大学側に善処を求める運動が学生自治会を中心に活発になっていった。大学側と学生側による問題のとらえ方の違いは、やがて「大学紛争」を生み出すまでに発展するが、この紛争は大学の規模拡大とそれにともなう学生の意識の変化との、対応のズレにより生じた側面があった。東洋大学の場合もその一例であるが、進学率の急上昇による大学の「大衆化」時代にはじまったこの紛争は、全国的な規模へと拡大していった。一九六五(昭和四〇)年の慶応義塾大学を皮切りに、一九六六年の早稲田大学、一九六七年の明治大学、一九六八年の中央大学と、学費値上げ反対のために激しい大学紛争が相次いで展開された。大学紛争、いわゆる「学生運動」はこのようにして全国へと波及・拡大第七章 大学の「大衆化」227
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