ショートヒストリー東洋大学
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「マスプロ教育」心に、これを問題として取り上げる活動をおこなった。一九六四(昭和三九)年の「白山祭」(大学祭)では、統一スローガンとして前年と同じ「人間を返せ」を掲げ、さらにサブタイトルとして「くたばれ、マスプロ教育」が取り上げられた。やがて「マスプロ教育」の問題は、一九六五(昭和四〇)年二月に一つの科目の試験の混乱から、身近な問題として、多くの学生の関心を呼ぶことになった。この試験では、事務の対応の不備により、受験者が試験の教室に入りきらないという事態が起こったからである。試験開始から一五分を経過しても問題用紙が配布されなかったために、学生の間から大学側の責任を追及する声が起こり、ついには試験ボイコットの署名がおこなわれる状況にまで発展した。このときは、結局、担当の教員が試験時間を延長する措置を説明し、学生の了解を得て事態は収拾された。学生側はこの事態を、不手際ではなく、「起こるべくして起こった事件」ととらえた。第七章 大学の「大衆化」225   

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