ショートヒストリー東洋大学
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大学の「大衆化」った。進学率の上昇は日本経済の高度成長が生み出した一つの側面であるが、進学熱の高まりはいわゆる「受験戦争」をひきおこして社会問題となった。一方、大学では学生数が急増したことによって新たな対応に迫られた。増大する進学者数をどのようにして収容するのかという問題に対して、文部省は大学設置基準の緩和運用という応急的対処療法を実施したが、加熱する受験戦争を冷ますまでに至らなかった。エリートを育成する場としての大学は戦後少しずつ変化していたが、この時期の進学率の急上昇によってさらに変貌して、大学は「大衆化」していった。大学の「大衆化」は、それまでの経験の枠外のことであり、各大学ともに未知の問題を抱えることになった。その一つが、大教室に多数の学生を収容して、教員が一方的に講義をするいわゆる「マスプロ教育」の問題であった。東洋大学もその例外ではなく、とくに校地が狭隘だった白山校舎で、「マスプロ教育」の問題が起こってきた。その状況を『東第七章 大学の「大衆化」223   

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