「国民の進学熱」(昭和四六)年には二七%へと上昇した。わずか一〇年の間に二倍以上の急上昇であった。東洋大学が総合大学となった一九六〇(昭和三〇)年代は、日本経済がいわゆる高度経済成長へと離陸しようとする時期であった。そのため、社会の基盤を形作っている教育の改革を、最初に求めたのは経済界であった。それまでの画一的な学校制度による普通教育の重視から、複雑な産業社会に適応できる人材の養成への転換を要請したのである。東洋大学もこのような動向に対応して、経済のほかに、法学・社会学の社会科学系の学部と工学部の設置を進めたのであった。しかし、このような経済界からの要請だけが、大学の発展を促進したのではなかった。それよりももっと基本的なものは、戦後一貫して求められてきた大学や高等教育機関への国民の進学熱であった。その高まりが、高等学校とともに大学への進学率を急上昇させたのであった。一九六一(昭和三六)年の大学への進学率(短期大学を含む)は一二%であったが、一九七一218
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