大学の総合化竹村吉右衛門はその後も理事から顧問となり、大学の行く末を見守った。不治の病にかかった直後から大学を支援した渋沢敬三は、入退院を繰り返していた。工学部開設から二年後の一九六三(昭和三八)年六月、東洋大学は渋沢に対して、新たに設定した名誉学位の第一号を授与した。当日、渋沢はまた病を押して授与式に出席した。それから程ない一〇月二五日、作家の井上靖から「日本の知識人の一つの良心」と言われた渋沢は、眠るように静かに死去した。その死去は戦後の終焉を物語るものであると言われた。東洋大学は戦後、多くの大学と同じように、廃墟から再出発した。それから一五年余りが過ぎた一九六一年には、大学院、文学・経済・法学・社会・工学の五学部、短期大学部をもつ、大学の総合化を達成した。すでにみてきたように、そこには数々の社会的な支援があった。そのようにして、実現された総合大学としての東洋大学の、川越校地と工学部の新設は、戦後の時代の終わりを告げるものであった。そこからまた、新たな大学像を求める時代がはじまった。第六章 廃墟から総合大学へ215
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