一二時に近づくころ、渋沢からの電話連絡があって、東洋大学工学部の設置が可決されたことを知った。一九六一(昭和三六)年四月一日、劒木亨弘はかねての約束を果たし、東洋大学理事長に就任した。五月二五日には、川越校地で初の入学式がおこなわれた。そして、本館校舎が落成した一〇月二四日、改めて工学部開学式が落成式とともに挙行された。悲願の新校地と工学部の設置は、このように数度にわたる関係者の心をこめた取り組みによって実現された。とくに同年二月の不認可から、ふたたび経済界からの寄付を募って取り組まれた時期は、それぞれの人々にとって忘れられないものとなった。その中心の一人であった竹村は、当時のことを「あのときは、命がけで毎日が絶体絶命という追い込まれた状態であった。駄目なら北海道の洞爺湖に飛び込もうとさえ思った」と語っている。大学と無縁の竹村が、なぜ自ら身体を張って工学部の開設に尽くしたのか、と関係者に聞かれた竹村は、「ただ頼まれたから」とだけ答えたという。214
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