足を引きずりながら、ビルのエレベーターに乗った」という。この姿を見て、同行した竹村は「その姿のいたいたしさには心が痛む想い」がしたと、後年書いている。すでに渋沢は不治の病にかかり、医師団はその余命を延ばすために治療に苦心していた時期であった。こうして、表9のような経済界からの寄付金のほか、役員、評議員、校友、保護者、教員、職員などからも総額三三六〇万円の寄付の申し込みがあり、合わせて三億五〇〇〇万円が寄付されることになった。問題となった私立大学審議会は何度も開催日を延期して、東洋大学の状況を待った。年度末ぎりぎりの三月二八日に、最後の私立大学審議会が開催された。その前日、竹村は日立製作所の倉田社長に会って、寄付された二億円の御礼を述べるとともに、否決された場合の対策を相談していた。渋沢と竹村の表立った活動を、陰でしっかりと裏付けしていたのが倉田であった。二八日午前一〇時、私立大学審議会が開催された。竹村は早朝から文部省に出向いて局長や課長などの幹部に対し、審議会開催の日程調整などの御礼の挨拶をしていた。時間が212
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