ショートヒストリー東洋大学
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「哲学館開設ノ旨趣」出血)」という「難治症」にまで病状は進み、療養を余儀なくされていたが、その中で自ら氏はすでに加藤弘之博士と相談して哲学館の創立に骨折っていたので、高等普通学校の方は交渉がまとまらなかった。このように、一方では旺盛な著作活動を展開し、他方で哲学館の創立を進めていた円了であるが、無理がたたって一八八五(明治一八)年から病気に罹っていた。「痔病の手術」「咽頭カタル」、一八八七(明治二〇)年には「血痰を吐くことあり」「一〇月二日夜喀血(肺の理想と信念をもって「命がけ」で取り組んだものが、哲学館の創立であった。一八八七(明治二〇)年六月、円了が発表した「哲学館開設ノ旨趣」と題する趣意書によって、哲学館は世に姿を現した。その内容は、まず哲学の意味の重要性を述べ、つぎに哲学館創立の目的におよんでいるが、これを要約すると、つぎのようになる。文明の発達は主として知力の発達によっている。その知力の発達をうながすものは教育であり、高等な知力を得るためにはそれに相応する学問を学ばなければならない。第一章 哲学館の創立19  

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