ショートヒストリー東洋大学
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できないと言って断ったが、個人の信用があれば組合からの融資は可能ということであった。竹村は迷った。渋沢さんに相談してからと思ったが、入院中に心配をかけるだけと思ってよした。大学のご連中は夜が更けても帰らない。恐らく質屋ののれんもくぐったことがないご連中ばかりで、途方にくれているだろう、とふっとこころに浮かんだ。以前の不渡りを回避するための瞬間と同じような心理で、とっさに連帯保証の印を押してしまった。暮れも迫る一二月三〇日、渋沢敬三は入院中の東大病院から、竹村に対して東洋大学の事態収拾に乗り出すように依頼した。翌年一月一七日に小康をえて退院した渋沢は、自らも大学救済のために乗り出した。竹村はその経過をこう述べている。東洋大学の危機に臨んで、自ら発病以来数多くの名誉職を逐次整理して減らしてこられたのに、東洋大学に限っては逆に自ら進んで理事になると言い出された。一月二四日に再度一〇〇〇万円の個人保証をした竹村は、二月五日の日曜日の早朝、渋沢からの連絡をうけて、麻布の渋沢邸へと向かった。204  

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