ある職員〇(昭和三五)年四月に、予定された教員に辞令を交付し、工学部設置準備室をおき、その大越諄が産学協同の教育による工学部の新設を説明したとき、倉田はかねがね技術教育に産学協同体制が最適であると考えていたので、その主旨に賛同すると言った。そして、まもなく日立製作所の創立五〇周年にあたるので、その記念事業の意味を込めて、同社の重役会で二億円を寄付することを決定したと伝えてきた。大学は工学部新設が不認可となっても、その計画を断念したわけではなかった。一九六後は施設の準備を進め、川越校地の木造校舎やラグビー場、野球場などを完成させた。だが、六月に入り校舎建設の支払いが迫るころ、資金の調達が困難となった。そのため、八月に大嶋理事長をはじめとする全理事が辞職する事態を迎えた。学内には動揺が走り、工学部の教員の準備委員会のメンバーにもその不安が伝わり、組織そのものが空中分解しそうな雰囲気となった。そのときのある職員のことを、工学部の教員の一人はこう語っている。202
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