ショートヒストリー東洋大学
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後の経済混乱期には大蔵大臣に就任して、新円切り替えなどの敗戦処理をおこない、退任後も日本を代表する企業の要職に就いて、日本再建を進めた財界の第一人者であった。一方で、渋沢は人類学、民俗学、社会経済史、水産史などの学術研究の推進につとめて「財界と学会の橋渡しの役目」を果たし、鮎川義介や研究所員の校友などから東洋大学の支援を依頼されたときは、国際電信電話会社社長で六五歳であった。もう一人の支援者は日立製作所社長の倉田主税であった。倉田は渋沢との関係を含めて、自身の技術革新への願いをこう考えていた。私は、一生を技術一筋に生きてきたものであるが、氏(渋沢)は技術方面で、私も驚くような新しい知識と認識をもっておられることがあった。私はかねてより、現代の厳しい技術革新に対応していくには、新しい技術開発も、その基礎研究も、一企業の手だけでできるものでもなく、また一大学の手だけでできるものではないことを痛感し、もっと大きな視野に立って、産学協同を推し進める以外にほかに策はないと考えていた。渋沢さんから、東洋大学工学部創設の話をもちかけられたのは、産学協同の第一歩として何か具体的なことを始めたいと思っていたときであった。第六章 廃墟から総合大学へ201  

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