ショートヒストリー東洋大学
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支援者の審査は通ったが、大学設置審議会では「設置基準に照らして校舎の坪数が不足であるとの理由から審議をおこなわないという判定が下された」のであった。この間に、理事長は大蔵大臣の自宅で交渉したり、村山理事とともに文部大臣と会見するなどしたが、不認可はくつがえらなかった。さらに一二月には、六月の参議院議員選挙に立候補した鮎川名誉総長が、息子の選挙違反事件の責任をとって、日本中小企業政治連盟総裁以外の一切の公職から身を引くことを表明した。鮎川は大学の資金導入にあたり株券を担保にいれるなど、資金収集の責任を果たしていたが、工学部の新設の新たな支援者を大学へ紹介し、一〇〇〇万円を寄付して名誉総長を辞任した。鮎川義介が依頼した支援者の一人は、「日本資本主義の父」と言われた渋沢栄一の孫にあたる渋沢敬三であった。渋沢敬三は祖父の後継者であり、戦前に第一銀行副頭取から日本銀行副総裁となり、戦200    

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