同(Cooperation between Unversities and Industries)の実態調査を依頼され、調査団の一員としてた。さきの川越校地の構想のうち、新学部として具体化したのが工学部であった。鮎川名誉総長は、科学研究所(現・理化学研究所)社長の村山威士に理事の就任を要請し、資金募集や学部の構想を検討させた。村山は科学研究所に関連する人脈から、東京大学教授で科学研究所の主任研究員を兼ねていた大越諄に協力を要請した。大越には新しい教育の構想があったからである。大越は、一九五七(昭和三二)年一〇月に日本生産性本部より、アメリカにおける産学協実態を調べ、「米国の一流大学の大部分は、産学協同の教育制度を採用し、非常な効果をあげ、米国産業界に貢献している」ことを深く知った。この産学協同の教育とは、「働いて学ぶ制度」(Work and Study i i ィッチ制度」(Sandwch 礎教育を受け、二年生になると大学での基礎教育と工場での実地訓練を組み合わせた教育となり、これを卒業までに何回か繰り返す方式であった。Program)と呼ばれ、学生が入学すると、最初の一年間は大学内で基Program)または「サンドウ198
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