ショートヒストリー東洋大学
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めていたが、そこには哲学の普及という大きな目的があったからである。右に述べたような東本願寺とのいきさつがあったので、円了は大学卒業後、官費研究生となって東本願寺より「印度哲学取調」係に任じられ、また、他の学校の講師をつとめながら、二年間はもっぱら哲学や仏教の著作に専念した。このときの著作の一つである『仏教活論序論』は、真理は哲学にありという観点から、仏教とキリスト教を対比させて、西洋には西洋の哲学があるように、東洋にも東洋の哲学があると独創的に論じ、衰退していた仏教界の関係者に多くの感銘を与えた。このベストセラーによって、仏教界は近代化へと歩み出し、また多くの日本人が「哲学」という学問を知るきっかけともなった。そして、円了は哲学書の出版を目的とする哲学書院という出版社を設立した。こうして活躍する円了に対して、当時の仏教界のリーダーである大内青せ巒らから、学校設立への参加を要請されたことがあった。交渉役をつとめた佐治実念はこう語っている。私の方では、大内青巒居士と一緒に各宗共同の高等普通学校を設立することになり、井上氏にも教頭になって大いに力を尽くしてくれるように相談をおこなったが、井上18   いん

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