長)、大浜信泉(早稲田大学総長)の大学関係者など、三五〇名が参加した。課程)が新たに設置された。同学部の設置にさきだって、前年一二月に講堂地下にテレビ大嶋理事長は、川越市での土地の買収を進めるとともに、財界の有力者を名誉総長に迎えて、理工系学部の設置体制をつくった。一二月には、鮎川名誉総長の就任披露パーティーが開催され、岸信介首相、松村謙三、浅沼稲次郎の国会議員や、安倍能成(学習院大学総一九五九年に入ると、九万坪の川越校地に関する具体的な構想が明らかになった。その構想とは、理学部、工学部、薬学部、農学部という複数の理工系学部を設置して、東洋大学を総合大学にするというものであった。また、川越に教養部を設けて、白山の教養課程を移転する計画で、これらの校舎は鉄筋コンクリートの三階建てとし、全部で七棟建設するものとした。この計画にもとづいて、校地と校舎の大規模な設計がおこなわれた。一方の白山校地では、四月に社会学部一部と二部、大学院にも社会学研究科(修士・博士スタジオなどの施設が設けられ、社会学科とならぶ応用社会学科は、このような施設を使った本格的なマス・コミュニケーション時代に対応する人材教育の分野を開拓しようとし第六章 廃墟から総合大学へ197
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