「産学協同」の工学教育る協定が結ばれ、一二月には一五九名の地主と大学との間で「不動産売買契約書」が交わされた。大学側では資金の調達がむずかしかったが、埼玉銀行から七〇〇〇万円の融資を得て、八万八三四〇坪(のちに増加して九万二一六九坪)の土地を取得した。それは、かつて一抱えもある大木がうっそうと繁っていた川越藩の狩猟地で、野兎がかけまわり小鳥のさえずりが森にこだまする、「武蔵野の面影」を残す土地であった。財政の危機的状況を抱えていた大嶋理事長は、理工系学部の新設にあたり教育に理解の深い財界の有力者として、参議院議員で日本中小企業政治連盟(中政連)総裁の鮎川義ぎ介すけを、東洋大学名誉総長に迎えた。鮎川は、政治理念として中小企業の振興を掲げていたので、東洋大学の卒業生が中小企業に就職して、それによって日本の底辺を支える中小企業の体質が改善されて活性化すれば、日本の発展につながると考えていた。196
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