ショートヒストリー東洋大学
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(昭和三二)年には創立七〇周年を経た東洋大学にとって、理工系の学部を新設することは、総合大学の構想を実現するものとして位置づけられた。ただ、理工系の学部の新設には膨大な設備投資が必要であった。大嶋理事長は一九五七年一一月、「学生を扇動し学内秩序を乱した」として、専任教授連合会の八名の教授と一名の助教授に辞職勧告をおこない、学内を一時紛糾させたが、この問題は二名の教授の解職と五名の教授の退職で終結した。東洋大学の理工系学部の設置運動がはじまったのは、翌年六月からである。そのきっかけは、ある不動産仲介業者による「埼玉県川越市が大学の誘致に積極的で、資金については同市が全面的にバックアップする」という話からはじまったという。この業者は、川越市に対しては東洋大学が十分な資金を持っていると宣伝し、埼玉銀行に対しては東洋大学は財政状態がよく相当の資金があると話し、東洋大学には埼玉銀行は何億円でも貸し付ける用意があるという触れ込みをしていた。三者とも、それぞれに話される内容を信じていたことから、実態とかけ離れた形で設置運動はスタートした。194    

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