理工系学部の設置運動議会の「科学技術教育の振興方策」が出されて、全体に技術教育の必要性が求められた。東洋大学は訴訟の和解によって新体制がつくられ、調停した竹村吉右衛門も中立の立場から請われて理事となったが、財政状態はまだ回復していなかった。一九五七年度の歳入が約二億一〇〇〇万円であるのに対して、まだ借入金は約一億五〇〇〇万円という状態で、教職員の人件費の二割削減案が出されたが、その間に埼玉県下の土地取得計画に着手したことから、理事会は組合や新たに結成された専任教授連合会からの反対運動に遭った。反対運動の側からも問題解決策が出されず、全理事が辞任することになり、和解に尽力した竹村も、このとき辞職した。一教授の推薦を受けた大嶋豊が、学外から新たな理事長・学長として就任した。大嶋は就任にあたり「時代の要求に応ずるために、今後は理工系の分野を新設し、科学技術の振興をはかり、これを実現させることが東洋大学の発展の基礎である」と述べた。すでに新制大学発足以来、文学部、経済学部、法学部、短期大学部をもち、一九五七第六章 廃墟から総合大学へ193
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