ショートヒストリー東洋大学
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工業社会の出現柄から、大塚の使者から大学の内紛問題の調停を依頼された。高齢の大塚は病床にあって、問題の解決を強く望んでいた。一九五七年に入り、竹村は裁判長と数度の懇談を重ねて両者の和解を進めたが、まず大学側が獅子吼会を代表する大塚に対し陳謝することが前提とされた。竹村の強い要請によって和解は進み、四月二二日に三年間にわたる訴訟が解決した。そのころ、戦後の復興に大きな役割を果たした大塚は過労から急速に老衰が進んでいた。六月一九日、大学側の理事長・理事が病床の大塚を見舞って重ねて陳謝したが、大塚は和解から三か月後の七月二八日に死去した。この年の四月に経済学部二部経済学科が設置された。こうして大学の再建はなんとか軌道に乗ってきたが、そのころ日本経済も新しい時代へと進展していた。戦後の日本は、一九五〇(昭和二五)年の朝鮮戦争による特需を経て、一九五五年前後に第六章 廃墟から総合大学へ191     

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