ショートヒストリー東洋大学
18/326

学校設立の意志井上円了は一八八五(明治一八)年二七歳で東京大学を首席で卒業し、文学士となった。一〇月の学位授与式では、円了は文学・理学・法学・医学の合計の四八名の総代となって謝辞を述べた。当時の東京大学の卒業生の進路をみると、文学部では大学の教官か官僚というエリートになるのが通常のコースであったようである。これは文部省が東京大学を国家の大学として位置づけ、官僚養成機関としていたためである。円了にも、そのような斡旋があった。円了に漢学を教えた石黒忠悳は、このとき陸軍軍医監にあり、同時に文部省が管轄する東京大学医学部に関する政務もおこなっていた。そして、石黒は円了の就職に関して森有礼文部大臣に、文部省へ抜擢採用をしてほしいと話した。森は承諾して即採用しようとしたが、円了は石黒に対して、つぎのように言って、これを断った。おぼしめしはまことにありがたいのですが、もとより私は本願寺の宗費生として大学16   

元のページ  ../index.html#18

このブックを見る