で進んだが、全体としての交渉の進展ははかばかしくなかった。同年一二月に、伝統ある教員養成の教育を重視した一職員の取り組みから、文部省の認可を得て、新制高等学校の教員認定講習会がはじまった。教員の免許を旧から新へと切り替えるための講習会であった。だが、新制大学の申請時期が迫るなかで、進展しない移転計画は結局断念され、とりあえず新制東洋大学は文学部と経済学部の設置で申請された。しかし、一九四九年二月の文部省の認可は文学部のみで、「施設と教員組織が設置基準に照らして不十分」という理由から、経済学部の新設は認められなかった。一九四九(昭和二四)年二月、戦前の「大学令」のような規制も受けず、新制東洋大学はスタートした。文学部には哲学科、仏教学科、国文学科、中国哲学文学科、史学科、英米文学科、社会学科という七学科があり、三五〇名の定員であった。新制大学で新たに導入されたものが一般教養課程であった。その目的は「民主社会の推進力となる『市民』を育成するための教育」で、科目は人文科学、社会科学、自然科学に分けられ、文科系の大学または学部では一五科目、理科系では一二科目の授業が用意され第六章 廃墟から総合大学へ177
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