ショートヒストリー東洋大学
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新制東洋大学醤油・油で染み、ねぎがしおりのようにはさまっていた……。しかし、そんな最悪の環境のなかで、皆は真剣に人生を語り、勉強もした。まず、戦災によって失った校舎を再建しなければならなかったし、教授、職員、学生の組織も再建しなければならなかったが、それには大学の将来像が問題であった。この時点でつくられた将来構想としては、従来の文学部のみの単科大学から複数学部を有する総合大学へと展開することであり、その学部として「文学部」「宗教学部」「政経学部」「社会学部」が考えられた。まず新発足にあたり文学部と経済学部を設け、その後に文学部に仏教学科、社会学科を、経済学部に政治学科をそれぞれ増設し、それを四学部へと発展させるという計画であった。その場合には校地が狭隘であるからとして、大学の移転が検討された。一九四七年七月から、埼玉県入間郡福岡村(現在の上福岡市)の陸軍施設の解放・払い下げ交渉が開始された。一九四八年三月には東洋大学再建事務局が設置され、川越市や入間郡内町村の同意ま176   

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