ショートヒストリー東洋大学
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んん    建設」という新学則を定めて、文学部に哲学科、宗教学科、文学科、史学科、社会学科の五学科を、専門部には国漢科、経済科、英語科、歴史科を設け、修業年限や定員などを変更して再出発した。戦後の社会運営の方法として「民主主義」が導入されたように、大学の運営にも新たな組織として、同年に教職員組合が、翌年に学生自治会が結成された。まだ、社会全体が廃墟と混乱のなかにあり、そのなかで新たな時代を模索する教育と学生生活がはじめられたが、さまざまなところに不備な点があることは免れがたい状況であった。下宿先の見当たらない当時の状況のなかで、大学は焼け残った施設をいくつか開放した。その一つの講堂地下の電気室は焼けて空洞になっていた。ここに木造の三段ベットがおかれ、六〇名ほどの学生が生活の場とした。通称「岩窟寮」と呼ばれた。登校時に、きたない丹た前ぜを着てぞろぞろ出て来ていた岩窟寮の寮生を、「油虫みたい! 早く追放すべきよ!」と言った女子学生がいた。ふんどしを洗った洗面器で湯をわかし、そこに茶の葉を投げ込み、それぞれの茶碗ですくって飲む茶道。教科書は第六章 廃墟から総合大学へ175

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