廃墟と混乱のなかで関西学院大学、神戸女学院大学であり、内訳をみれば女子大学と宗教系大学であった。ここにはすでに、宗教の自由、女子教育、私学重視という占領軍の教育政策が実現されていた。そのため、戦前の「大学令」によってつくられた過酷な条件なしに、これらの一二校に続いて、一九四九年から新制大学が続々と誕生することになった。さらに、戦前の私学に対する文部省の強い監督権・命令権を規定していたのは、勅令の「私立学校令」(一八九九年)であったが、新制度下ではこれも廃止され、一九四九年には「私立学校法」が制定された。この法律は、いくつかの限界を含むものではあったが、私学の「公共性」をあらためて確認し、運営の閉鎖性と経営における利潤追求を禁じる方針を打ち出し、評議員・評議員会の設置を義務づけるものであった。これによって学校法人が誕生した。このような急速な改革が進められるなかで、東洋大学の戦後もはじまった。校舎の修理から歩みをはじめた東洋大学は、一九四六(昭和二一)年四月、「平和国家の174
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