ショートヒストリー東洋大学
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新制大学学はそのうちの二五校であり、学生数は三万四〇〇〇名で、全体に占める割合は四三%であった。旧制大学・専門学校・大学予科・師範学校、旧制高校などの全体に占めた私学の割合をみると、学校数では三九%、学生・生徒数では四三%と半数以下にとどまっていた。このことから戦前の高等教育をみてみると、主幹部分と社会的な威信をになう組織は国・公立の部分であり、私学はとくに大きな意味をもたされていなかった。だが、占領軍当局をはじめとする私学重視の政策と、それを含んで進めた戦後の教育改革の作業は、このような高等教育の伝統的な性格に対する批判を意味するものであった。新制大学が正式に発足したのは、一九四九(昭和二四)年四月から五月、およびその後のことである。すでに一九四八年春に、他の学校と切り離した形で、一二校の新制大学が誕生した。公立は一校だけで、その他の私立の一一校は、日本女子大学、東京女子大学、津田塾大学、国学院大学、上智大学、聖心女子大学、同志社大学、立命館大学、関西大学、第六章 廃墟から総合大学へ173    

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