ショートヒストリー東洋大学
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はなはだしかったのは国民学校(小学校)と私立大学であった。両者とも大都市に集中していたからである。文部省による調査では、大学全体の被災校である三六校のうち、私立大学で被災したのは一六校と半数近くに達した。こうした状況の中で東洋大学は、八月一五日の「敗戦」を迎えた。八月はじめに出された新学長の認可書が、大学に届いたのは、二か月後の一〇月であった。それから復興がはじめられ、一一月に「復興委員会」が組織された。その趣旨書には「新しき日本文化建設への撓たまざる創造的精神」がうたわれ、復興資金の募集の呼びかけが記された。さきの「大学令」による供託金も、終戦前に完納できず、財政難は続いていた。大学だけではなく、日本のすべてが財政難を抱えながら復興しなければならなかった。廃墟となった東洋大学も、空襲で焼け残ったコンクリートの校舎・講堂・図書館の、まず窓と窓ガラスの修理が、その年の一二月から翌年二月までの長期の冬季休暇期間中におこなわれた。翌年の始業式のためである。東洋大学がようやく復興への道を歩みはじめたとき、日本の旧体制から新体制への転換第六章 廃墟から総合大学へ169  わ  

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