方策」の内容は、具体的には、文科系大学と専門学校の理科系学校への転換、文科系大学の専門学校への転換、およびその入学定員の二分の一程度の削減を求めるものであり、学校の整理統合も視野に入っていた。大学の経営問題を抱えるなかで選択を求められた高嶋学長は、東洋大学文学部の五学科を二学科に、専門部の四学科も二学科に縮小して、さらに学生定員もほぼ半数にする回答を文部省に提出した。理科系への転換や他の学校との整理統合に対しては、建学の精神をあげて独自の存続を強調して、転換や統合に至らなかった。しかし、日本の教育体制は、これ以降、学徒動員の強化、徴兵猶予の停止、学徒出陣、学徒の勤労動員令などの法律が施行され、ついに短期決戦措置要綱、戦時教育令へと突き進んでいった。明治時代から営々として築かれてきた教育のすべてのものが崩壊に瀕した。多くの大学がそうであったように、崩壊への道は東洋大学にとっても免れ難いものであった。そして、一九四五(昭和二〇)年に敗戦を迎えた。166
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