ショートヒストリー東洋大学
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戦時下の東洋大学う意味をもった。大倉学長の施策によって学生数の減少傾向はとどまった。一九三八年度には三八四名にまで減少していたが、それが学部・予科・専門部ともに次第に増加し、五年後の一九四三年には一五〇〇名近くまで増えたのであった。しかし、すでに日本軍の真珠湾攻撃(一九四一年一二月)を皮切りに、日本は太平洋戦争へと突入した。大倉学長の重視した「護国愛理」の建学の精神も、体制の勢いのままに「護国」を最優先とする傾向が強まった。日本のすべてが戦争遂行を最優先とする時代となり、その体制のはじまりとして国民精神総動員実施要綱が閣議決定され(一九三七年)、その答申を受けて大学への教練担当の現役将校という軍人の配属がはじまり(一九三八年)、さらに一九四一年には学生の在学年限の短縮がはじまった。日本の敗色が次第に濃くなる一九四三(昭和一八)年七月、戦時下の第一二代学長の高嶋米峰は、一つの決断を迫られた。同年一〇月に政府が示した「教育に関する戦時非常措置第五章 苦難の昇格運動165   

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