経済系の新学科とする二教授から、六月二一日に辞表が出された。さらに、二三日には二教授が、そしてその後には一二名の教授・講師が辞職を表明する事態に発展した。教授の中には学科を代表する教員も含まれていたので、学長は再三にわたり慰留したが、ついに聞き入れられなかった。しかし、事件の発生が夏期休暇に入る時期であったことなどから、一大事件には発展しなかった。一九三八(昭和一三)年四月に「国家総動員法」が公布され、戦時体制は一段と強まった。この前後に、大学の方針も変化した。一九三五(昭和一〇)年一一月、文部大臣の諮問機関である教学刷新評議会は、「現下わが国における学問、教育の実情をみるに、明治以来輸入せられたる西洋の思想、文化にして未だ十分咀嚼せられざるものを含み、これがために日本精神の透徹全からざるもの」があるとして、「国体観念、日本精神を根本として学問、教育刷新の方途」を審議した。第五章 苦難の昇格運動163
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