ショートヒストリー東洋大学
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決に取り組んだが、それが運営上では教授側との対立となり、やがて表面化した。この対立は一九三八(昭和一三)年に「一六教授辞職事件」となった。それまで「人事問題、学科の設置および廃止」に関する権限は、十分な知識をもつ教授側が担当していたが、これを校友・教授の双方からなる決定機関に移すという提案があった。この問題は大学運営・経営の根本的改革につながることであった。これより一年前に、教育制度の研究者である阿部重孝らが組織した教育改革同志会から、大学を職業教育機関と学術研究機関とに「画然と区別」する改革案が提起されていた。文学部をもつ東洋大学は、どちらかと言えば、「学術研究」的傾向が強かったのは、文科系という学問の性質からも自然なことであったが、時代の潮流としては「職業教育」を求める方向が強くなっていた。このような大学のあり方をめぐる問題はこの事件にも含まれていた。これを底流としながら、人事問題に関する審議機関のあり方をめぐって、事件は発生した。規則を改正する討議は財団の委員会でおこなわれ、人事問題を校友・教授の双方の委員で決定する方法に一応帰結したかにみえたが、教員の人事問題は教授側の専権事項である162   

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