お減少するかも知れぬ。これを予算の方から見ると、約五〇〇〇円近い減少であるから、各部の予算も二、三割削減しなければやっていけまいと思う。この事態を受けて、大学側では例年の数倍の宣伝費をかけて、学生募集をおこなうなどの方策を講じたが、それでも思ったような効果をあげることはできず、在学生数は年ごとに減少した。そのため、分割された文部省への供託金も第一回は渡すことができたが、その支払い計画を見直さざるを得なくなり、延期する以外に方法がなかった。こうした状況のなかで、一九三二(昭和七)年五月に「講堂」建設のための学生運動が起こった。この運動は、学生が年額一一円を向こう五年間にわたり寄付するというもので、学生は今年度中に着工し翌年完成することを求める決議を提出した。女子同窓会が三〇〇円を寄付するなどのこともあって、講堂は一九三三年二月に着工され、翌一九三四年一月に落成式が挙行された。だが、学生数の減少は深刻さを増していった。一九三七(昭和一二)年の創立五〇周年の前夜はこのような状況であった。第五章 苦難の昇格運動159
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