廃止された)。二か月後の六月には、新図書館が完成した。これによって、昇格のための基一九二八(昭和三)年三月三〇日、「大学令」による東洋大学の設立が認可された。新設されたのは文学部である。四月には文部省への第一回の供託金として二五万円が支出され、七月になると新校舎が完成した。また八月には図書館の建設に着工した。一九二九(昭和四)年四月、「大学令」による学部が開設され、哲学科、仏教学科、国文学科、支那哲学支那文学科の四学科が設けられた(「専門学校令」による大学部は、一九三〇年度で本条件はすべて達成された。かねて、学生などから「大学令」による初代学長への就任を推薦されても、固辞していた中島も、九月に第七代学長に就任した。一一月二三日には、大学昇格祝賀式、創立記念式、学長歓迎会が挙行された。中島学長はこのようにして、第一次昇格運動で大きな亀裂をつくった東洋大学を再建し、一九二四(大正一三)年に学長事務取扱に就任してから、五年をかけて昇格を実現させた。中島学長は一九三一(昭和六)年に任期を満了したが、学長事務取扱の役職中から専門部156
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