ショートヒストリー東洋大学
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中島は大正時代までの東洋大学をこうみていた。いかにも規模は小さい、やり方ははなばなしくない。けれどもそれだけここに満ちてる空気は質実である、自由である。どこをみてもおよそ大きな組織機関となれば、支配力が強大で、したがって権威が理性を圧し、感情が権威に阿府する(おもねる)欠点短所がうかがわれやすい。これにおいて、社会において最も神聖なるべき学府が、ややもすれば俗世間の小照となるを免れぬ傾向がある。官僚臭味、党派根性、成金迎合、学校政略などが看板の美、口上の合理性のもとにおこなわれることとなる。しかるに過去のこの学校には、僕の感ずる限り、比較的にこの種の嫌いがなかった。これが比較的に待遇のよくなかったにもかかわらず、気持ちよくのびのびと、僕が勤めていられたゆえんである。就任した中島は、分裂した校友会の和解を進めるとともに、教学と財政の二つの問題にも取り組まなければならなかった。妻から最低生活費を聞いて、その金額を学長給としたように、まず自らの姿勢を正した。中島は、一九二五(大正一四)年二月、専門部東洋文学科の夜間部を設置した。一二月に第五章 苦難の昇格運動151   

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