ショートヒストリー東洋大学
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「新仏教運動」を起こし、『中央公論』などの誌上で社会評論を発表していた。自ら書店や出版社を経営したが、清貧をモットーに一仏教徒としての生き方を貫いた人物である。高嶋は明治末期の仏教界の沈滞を、細分化されてレベルの上がらない各宗立の専門学校の教育体制にあると考え、「帝国大学の一文科大学(学部)と同等以上くらいの宗教大学を建設して、ここで各宗派が、自分の学僧も、布教僧も、養成するよりほかはあるまい」と主張し、その大学としては宗派を超えた教育実績をもつ東洋大学が適当ではないかという提案をしたことがあった。高嶋によれば、「大学令」の公布後の一九一九(大正八)年一月四日に、井上円了から遺作となった『真怪』の原稿を受け取ったとき、「当時やかましい問題となっていた東洋大学の現状および将来に関して、緊張せる意見の交換」を、およそ一時間交わしていたという。高嶋は同年五月に、常盤大定、岡田良平、片山国嘉、高楠順次郎、村上専精、前田慧雲、富士川游、沢柳政太郎の宗教・教育界を代表する人々と連名で、仏教界に「教界の長老諸師に呈す」と題して、世界的教科大学(仏教総合大学)の建設を提案した(その基金として第五章 苦難の昇格運動147   

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